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Ÿ 大邱邑城とは?

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"そうして我々は壮大な行列を成し、ずっと都の中を見てまわった。私に城壁の上で一望する機会を与えるために、行列は城の巡視路を回ったが、その道は北京の城にあるものの縮小版といった印象だった。都全体を囲むように平行四辺形に城壁が繋がっているのだ。その各壁面の中央には同じ規模の要塞化した城門が堂々と立ち、その上には煌びやかな楼閣が建っていた。楼閣の内部は過去の事件に関する文と絵が記されていた。そこで私は、秋の黄金色の野原をくねくね流れる琴湖江の美しい姿を目にした"

 

- 19世紀末のフランスの地理(民族)学者、シャロル・バラが記した大邱邑城の風景 「シャルル・バラ他、朝鮮紀行、瞳、2006、166ページ ”

日本の侵略に備えて築城された大邱邑城

達西門-西小門-望京楼と続く土の壁は、1907年3月5日に着手し、3週間でなくして土は個人で手分けして撤去します。
望京楼から北門を経て東将台までは平坦ですが、東将台から東門・東小門を経て南将台までの土と石は撤去費用がなく、他に方法がないので、大邱府28洞の住民に割り当てて撤去するのはいかがでしょうか...
1907年光武11年3月1日 パク・チュンヤンが朝廷に出した城壁解体報告書

大邱邑城は日本の侵略に備えて永川、清道、星州、晋州、東莱、安東、尚州城とともに建てられた。 本来は土城として築造(1591年、宣祖24)されたが、1年後に文禄の役によって破壊され、その後も様々な事情から築造されずにいたが、1736年(英祖12)当時、慶尚道観察使兼都護府使だったミン・ウンスにより築造が再開された。

6カ月にわたる工事に約8万人が参加
「大邱邑城は、1736年1月8日に工事が始まり、6月6日に女牒が完成した」と記録されている。工事期間は6カ月で、工事に参加した人は述べ人数で7万8,584人にも上ったという。こうして完成された城は、直径2,124歩(2,650m)、女牒819個、高さが西南側18尺、東側17尺だった。完成された城には4つの大門と2つの小さな暗門があり、4つの端には東将台など望楼があった。
1907年、城が崩れる。
その後、親日派で当時慶尚道観察使の代理だったパク・チュンヤンは、日本の居留民団の撤去しようという提案を受け入れ、朝廷の承諾も得ずに崩してしまった。当時、城石は四方に散らばり、擁壁や石垣、住宅基礎石、階段、庭園石などに使われたとされている。
邑城石の活用例
変更日 : 2018.02.23

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